埼玉県草加市在住、畑井文栄でございます。 ブログを通して草加市及び近隣のご紹介をしております。 さて、今回は 草加が煎餅の町になった経緯をお伝え致します。
ルーツについては諸説ありますが、最も親しまれているのは「おせんさん」のエピソードです。
草加が日光街道の宿場町として栄えた頃、おせんさんという女性が街道で旅人相手の茶屋で団子を売っていましたが、この団子はたまに売れ残ってしまうこともありました。団子は日持ちがしません。おせんさんはこの団子を捨ててしまうのはもったいないと悩んでいました。ある日茶屋の前を通りかかったお侍さんに「団子を平につぶして天日で乾かし、焼き餅として売る」というアイデアをもらいました。おせんさんが早速焼き餅を作って売り出したところ、たちまち評判となりその焼き餅は街道の名物になったという話が語り継がれています。
草加は昔から米どころと言われ、多くの米がとれたことから、農家の人たちは余った米を保存するために団子状にした米を乾かしたものを保存食として作っていました。
江戸時代になり、草加宿ができると、茶屋や物売りが軒を並べるようになりました。このころから保存食だった煎餅も店で売られるようになり、広まっていったと考えられています。当初は生地に塩を練りこんだものでしたが、醤油が普及し始めた幕末から、焼いたせんべいに醤油が塗られるようになりました。
明治後半になると煎餅屋が増えていきますが、当時はお煎餅屋としてではなく、雑貨などの商売の片手間に行われていました。
大正時代以降、煎餅の認知度は高くなります。そのきっかけは当時川越で行われた特別大演習で、「煎餅」が埼玉の名産品として天皇に献上されたことにあります。これが「天皇家が召し上がったおいしい草加の煎餅=草加せんべい」として名称が広がっていきました。このころから煎餅づくりは地場産業として発達していきました。
昭和に入っても順調だった煎餅産業は、太平洋戦争の激化から配給物資の統制により材料の米が手に入らず、煎餅屋は次々に廃業。警察の厳しいヤミ米取締の中、どうにか材料の米を手に入れて製造を続けた業者もいましたが、煎餅産業にとって受難の時代がしばらく続きました。しかしこの時危険を冒してまでも技術の伝承を途切れさせなかったことが後に幸いしました。
昭和30年代コメの統制解除や高度経済成長の波に乗って、駅やデパートでの即売会などで「草加せんべい」の知名度は飛躍的に上がりました。しかし「草加せんべい」の知名度が上がるにつれ、草加以外の煎餅屋の製品や、異なる製法によるものに草加せんべいの名称を使う業者が全国で横行し、その結果「草加せんべい」は全国的な知名度を得たものの、類似品や模倣品によって信頼が低下してしまいました。こうした状況を打開し、正真正銘の「草加せんべい」ブランドの復権と確立に向けて、市と煎餅業者が一致団結し、「本場の本物」の認定に続き、「地域団体商標」を登録しました。
草加せんべいの基準は次のとおり(認定当時)。
製造地:草加・八潮・川口・越谷・鳩ケ谷で製造
材料:関東近県で収穫された良質のうるち米
製造:最低10年の経験を持つ職人が製造を管理
焼き方:押し瓦での型焼き又は押し瓦方式を取り入れた堅焼き
認定商品には信頼の証である「本場の本物」マークが表示できます。
現在、市内にあるせんべいの製造所や販売所は50軒以上。 製造工程は機械化されつつありますが、昔ながらの天日干しや手焼きも行われています。 米の銘柄や使う生地、味付が異なり、自分好みのおせんべいを探してみるのはいかがでしょうか。